上機嫌で何が悪い!ブログ「火花」又吉直樹著

 「この小説は、僕のことを書いているんだ。」と思わせる小説がいい小説なら、これは間違いなくいい小説です。スパークスの徳永は、何事も突き詰めることができなかった僕そのもののようです。

 『僕は徹底的な異端にはなり切れない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることもできない。嘘を吐くことは男児としてみっともないからだ。知っている。そんな陳腐な自尊心こそみっとないとなどいう平凡な言葉は何度でも聞いてきた。でも無理なのだ。』

 絵描きと額縁のたとえがわかりやすい。

 神谷さんは職人の絵描きなのだ。それがどんな額縁に飾られてもそれは神谷さんの仕事の範疇ではないのだ。しかし、徳永は違う考えを持つようになっている。作品は、世間というものに受け入れられなくてはならない、そのために、絵描きとしては、どのような額縁に絵が飾られるのかまで計算しなければならない、と考える。たとえそれが「商業的」で「純粋さを欠くこと」になろうとも。

 スパークスの解散が決まって。

 「僕は天才になりたかった。人を笑わせたかった。僕を嫌いな人たち笑わせられなくて、ごめんなさい。」まさに、その時の徳永のことをなぜ僕は「わかる」のだろうか。

 こうして徳永の年齢から相当の年を経た今の僕は、何事も突き詰めたりはしない。突き詰めることが怖いのか。突き詰める対象が「笑い」というはっきりと結果がでるものではなく、「自分自身の満足」というぐにゃぐにゃしたものになっているということなのだろうか。