上機嫌で何が悪い!ブログ 「火を熾す」ジャック・ロンドン著 柴田元幸訳

 ジャック・ロンドン こんな短編小説家がいたなんて!タイトルにもなった「火を熾す」の鮮烈なこと。マイナス50度の中を歩き続けることの危険性、たった一度の判断の誤り、ー雪がたっぷり積もった木の下で火を熾してしまったことー、が生死を分けるその命の営みの危うさが、きりっとした文体で書かれている一作。短編集。

 僕は、「a piece of  steak」一枚のステーキと訳されたその短編に心を奪われました。試合後に流す老ボクサーの涙が、老いることの意味をえぐり取っています。老いるとはこういうことなんだよ、って晒してくれています。若さと引き換えに獲得した知恵をもってしても、届かない勝利。正に「世界は若さにひれ伏す」ものだと喝破されている一作です。

その他、「生の掟」等の生命の因果をめぐるストーリーは本当に面白いです。「生への執着」も入り込んでしまうと、気持ち悪くて戻しそうになるくらい素晴らしい出来と思います。

 ただ、印象に残りにくい短編なんかも、ないことはないです。

上機嫌で何が悪い!ブログ「旅のつばくろ」沢木耕太郎著

 いいなぁ沢木耕太郎、思いつきを行動に移す反射神経が好きです。例えば軽井沢の雲場池の存在を隣り合わせた老婦人から教わったこんな文章で。「しかし、この偶然を生かさない手はないと思えた。軽井沢で降りると、老婦人が教えてくれたとおり循環バスに乗った。すると十分足らずで停留所につき(中略)、このような見事な紅葉を見られるということが奇跡のような気がするほどものであり、生で、しかも目近かでみた紅葉には、パンフレットの写真の美しさをはるかに凌駕する奥行きと色の複雑さがあった。」

 旅にはチャンスをものにするゆとりがあったほうが面白い、だけどそれだけで旅が面白くはならない、そこには決断力が必要なんだろう。

 だけどそんな幸運は、数多くの旅を重ねないと巡り合えない。少なくとも僕はそんなに旅をすることができない。

 そんな僕でも面白く旅するコツについて、沢木は、何でも「面白がること」と書いている。過去の体験や出来事、故人とのやりとりをきちんと抽斗にしまっておく。それを時宜に応じて取り出して、そして今、眼前で行われている状況と比較して面白がる。それがコツらしい。

 何でも、結びつけて考える力、つまりは編集する力、それこそが「面白がる」秘訣なのではと考えました。

上機嫌で何が悪い!ブログ「戦国の陣形」 乃至政彦著

 江戸時代の参勤交代のイラストへの説明に、上杉謙信の「車懸かりの陣を基にした」とありました。平和な時代の行列と軍神と呼ばれた謙信公の戦術がどない関係するねん!と疑問でした。なんと、弓 鑓 騎馬 鉄砲等の兵種別の運用を本格的に始めたのが謙信公だったのですね。

  歴史学、最近特に深化が進んで、面白い研究や仮説が多くでています。最新の陣形(備え、配置)や兵の運用(手だて、戦術)に言及したこの本は、非常に面白いです。

 中世の戦の様子、てんでばらばらに功名を競った個人戦の積み上げであったことは、太平記平家物語なんかでは感じていました。戦国時代、長篠の戦いでは鉄砲の集団運用がされていた様子です。その間、誰がどうやって進歩させたのか。(この進歩について、僕は特に疑問を感じてなかったのです。そういうもんだと刷り込まれていたのですね。常識にに囚われていました。)そして、答えは信長ではなかったのですね。てっきり信長公だと思っていました。信長公イコール革新的な合戦という印象ですので。

川中島、三方ヶ原、関ヶ原の三つの戦いを一次資料を基に詳細に時系列で追っていくことで、合戦のイメージが変わります。特に関ヶ原(青野ヶ原の戦い)はほんとに当たり前が変わります。小牧長久手の戦いが三か月続いたわりに、なぜ関ヶ原が半日でおわったのか。(長い間疑問でした。)この疑問が少し晴れます。

 歴史好きにはたまらない 非常に興味深い一冊です。

 

 

 

 

上機嫌で何が悪い!ブログ「別のしかたで ツイッター哲学」千葉雅也著

 テーマの沿ってツイートが並ぶ形式。「テクスト(かかれたもの)は宿命的に相手には届かない」、という内田樹先生の言葉を信頼して、どんどん読み進める。複数の連続するツイートで一つのテーマを形成している箇所もありますが、基本的には一つのツイートで完結しています。

 しかし、ツイートという制限の中で言葉一つひとつの重要性が日常の文章とは全然違います。「倒錯」「メタ言説」「皮肉」「承前」「去勢」など、いろんな言葉を改めてて改めて調べなおしたくらい言葉に向き合わないと短いツイートの理解ができなくなる。(理解が「乏しくなる」ではなく、本当に理解ができなくなるのです。)

 また、一つひとつのつぶやきの裏にある知識や経験を読み取ろうとして想像する様は、俳句のようでもあります。言い回しを排除しているという点でツイッターはせっかち~な僕にしっくりくる媒体なのかも、と思えました。

 140字以内で完結する「(=輪郭を与えられる)、(=有限化される)、(=非意味的に切断される)いずれも本文中の表現」ツイートって、だらだら連想のままに書かれた文書を書く人こそ使ってほしいです。だからって、僕が使うと140字にすらテクストは埋まらないでしょうね~。

 

 

上機嫌で何が悪い!ブログ「本当の翻訳の話をしよう」村上春樹 柴田元幸 著

 アメリカ文学って、そんなにも魅力的なのかぁ、と思える対談集、講義録。正直言って、マニアックすぎてついてけないところもあります。でも、お二人のあまりにも楽しそうな雰囲気に呑まれて、ついアメリカ文学をいろいろと読んでみようかなと思わせられます。どんな広告よりも、効果的。

 サリンジャーフィッツジェラルドはともかく、ジョン・ペイリーって誰よ?ジャック・ロンドンってどなた?って世界に住んでる僕にとっては、なんだか世界が広がったような感覚です。(近所の図書館にあるかしら?)

 最終章の「本当の翻訳の話をしよう」で、村上春樹柴田元幸の翻訳の比較が載っています。レイモンド・チャンドラー「PLAY BACK」のあのフレーズ「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。」の訳。原典では「 If I wasnt hard, I wouldntbe alive. If I couldnt</code><code>ever be gentle, I wouldnt deserve to be alive.」一文。村上訳は「厳しい心を持たずに生き延びてはいけない。優しくなれないようなら生きるに値しない」 柴田訳は「無情でなければ、いまごろ生きちゃいない。優しくなければ、生きている資格がない」

 僕としては、hardを厳しい心と訳する村上訳より柴田訳のほうの方が好きです。(どっちがいいのかわかりません。「PLAY BACK」は村上春樹訳で既読ですが、全く気になりませんでした。)そんなことより、第一文と第二文の間に、強調の「しかし」や「でも」とか入れたくなります。より対比が鮮明になるような気がするのですが。

 最後に、この一冊を読むことで、確実に翻訳が身近に感じることができるようになるという点でおすすめです。(翻訳文学の広告になってるでしょうか?)

上機嫌で何が悪い!ブログ「どこか、安心できる場所で 新しいイタリアの文学」パオロ・コニェッティ他

 イタリアについて書いてある本は、まぁある。少ないにせよ読んだこともある。須賀敦子とか塩野七海とか。イタリアの文学ってどんなの?国に独特な発想とか文物の表現とか文脈ってあるの?

 僕たちは、「国語」を使って思考するから、語法の檻から抜け出すことはできない、ってことなら、(それはそうなんだとして)僕たちが使う日本語、日本語を使って考えることは、どんな固有性があるのかな?もちろんそれは他言語テクストと比較しないとわからないので、残念ながら僕にはわからない。わからないけど、それなりに想像することくらにならできそう。

 さて、2000年以降に発表されている(この短編集の編集の条件でもある)イタリア文学の特性はどうか、まではもちろんわからない、わからないけど、差異よりも共通項のほうが目立つなという印象でした。都市や都市近郊で暮らす人々が取り上げられていたからかも。都市の暮らしは近代文明という大気圧の下で、どことなく似てしまうものだし。

 差異はというと、歴史に根源を持つイタリア人の人種観が、僕には新鮮だった。ソマリア人の女性を描く「わたしは誰?」(イジャーバ・シェーゴ作)は、貧乏な出身国に軸足を置きつつも、イタリアで近代的に暮らす若い女性の自分の若さが失われていくことへの焦燥や開き直りが描かれていて、日本では感じられないであろう感情の描写が面白かったです。

 しかし、差異よりもテーマの選び方の共通の多さのほうが、実は驚きでした。「どこか、安心できる場所で」(フランチェスカ・マンフレーディー作)は、主人公の女の子が従妹の女の子と小さな冒険体験をして、妊娠中の母の元へ戻るという物語的な構成の作品。まんま僕が知る「行きて戻りし物語」なので、そこらへんは、きっと人類の普遍的部分なのだろうし、読みやすいと感じた源であろうなと思いました。

 

 

 

上機嫌で何が悪い!ブログ「君がいないと小説は書けない」白石一文著

随筆なのか小説なのか?自伝的小説と「帯」にあったけど、いやいや、少なくとも分量の半分は随筆です。

 人生の自分に降りかかってきた出来事を「たまたま(偶然)」起こったことであっても、それらを撚り合わせて因果関係を見出し、そして必然と見做す。それによって、人生に濃淡がでて、非常に魅力的にみえるようになるんだなぁ、という見本です。

 最愛の人ことりの不倫疑惑に苦しみながらも、自分の人生は「長くて退屈でひどく空しい夢」のようなものと認定しつつ、そのような人生を自ら選択している、ことを深く洞察している作者は、自己をよく観察しているんだなと、感じ入ります。

そ ういう人生観が伺えるのが、S氏のくだり。冒頭一文目『去年も知り合いが二人死んだ』から始まり、そして、『75年の人生の終わりに、結局は一介の死者となってしまった者が人生の成功者のはずもなく、まして幸運な人間だと言えるはずもない。』『幸福な人生などどこにもありはしない、というのは、やがて死すべき私たちにとって圧倒的な説得力を持つ考え方である。』

 そう喝破されて、残念に思う人もいるでしょうけど、僕にとっては、非常に勇気づけられた。「大丈夫、このまま生き続けてもいいんだ。」と思えました。